
かつて昔話は昔語りと言われていた様に、一日の仕事を終えた大人たちにより、いろりばたに集まった子どもらに語られてきました。外の真っ暗闇や焚き火の炎が、子どもたちの想像力をいっそうかきたてました。今日ではそのような生活から遠ざかってしまいましたが、それでも子どもたちは昔話を好んで聞きます。私が保育園に勤めていた頃、物語りというものに興味を示し始めた2歳児たちが、「三びきのやぎのがらがらどん」にくいいるような眼差しを向けてきたのが今も忘れられません。現在は地元の小学校で語ることを続けていますが、小学生たちも日本の昔話やグリムの昔話に喜んで聞き入ります。昔話には、子どもを引きつける不思議な力があるようです。それは何なのでしょうか。
スイスの画家、フェリクス・ホフマンによる「おおかみと七ひきのこやぎ」は幼い子どもたちに根強い人気のあるすぐれた絵本です。この絵本の誕生には、とても興味深いエピソードがあります。4人の子どもの父親であったホフマンは、病気になった2歳の娘を慰めるために「おおかみと七ひきのこやぎ」のお話を語り、毎日お話に合わせて絵を2枚描いて家に持って帰ってきたそうです。これが後に偉大な絵本作家への第一歩となったのです。父親からのなんと素晴らしい贈り物でしょうか。今回はこの「おおかみと七ひきのこやぎ」をとりあげ、子どもと昔話について考えてみたいと思います。
まずはじめのページでは、広い草場にお母さんヤギだけがエプロンをして二本足で立っています。立つことで子ヤギたちをしっかり見守り、大切に育てていることが伝わってきます。次にお母さんは食べ物をさがしに出かけるため、子ヤギたちにオオカミに気をつけるようにと注意します。そ
れもそのオオカミは声がしわがれていることと足の黒いことで見分けがつくと具体的に教えています。この明解な語り口が聞き手の心をひきつけ、オオカミがくることを予測させます。絵を見ると一番前でお母さんを見上げて真剣に聞いている子ヤギがいます(実はこの一匹だけが助かります。)
お話の方は一直線に進み、オオカミがやってきて「あけておくれ、おかあさんだよ」と言います。この時、聞き手の子どもはまるで自分の予想が当たったかのように思い、物語にいっそう引きこまれていきます。昔話ではこの先何が起こるかを警告や禁止、予言などの形で前もって語っておく事がよくあります。これは昔話の特徴として「先取り」、と言われていますが、この先取りにより子ども達は注意をそらさず、お話を最後まで楽しむことができるのでしょう。また、オオカミは、はくぼくを食べたり、足を白くして三度くりかえしやってきます。子どもは繰り返しを喜びますが、このくりかえしも話を辿りやすくさせ、次に起こる出来事への期待をふくらませます。オオカミが雑貨屋に行ったり粉屋に行ったりする場面は、写実とファンタジーを混じり合わせ見事に描かれています。同じような例は、ウクライナ民話「てぶくろ」(ひよこコース収録)にも見られます。動物たちが着ている民族衣装は写実的ですが、キツネやオオカミまで入れるてぶくろはファンタジーの世界です。さて、オオカミがやって来る度に聞き手のハラハラ、ドキドキは高まり、ついに子ヤギたちはオオカミに食べられてしまいます。けれども少しも血が流れたとは語っていません。これも昔話に共通しており、昔話を残酷だと言うのは見当違いで、むしろこの急激な場面展開による精神の高揚こそ、子どもが昔話に求めているものだと思います。七匹目の子ヤギだけ生き残っていたことで、また物語は急展開します。お母さんがオオカミのおなかを切り開いて六匹の子ヤギを助け出し、石をつめて縫い合わせるまでのなんと手早いこと。まるで切り紙細工のようです。目をさましたオオカミを窓の中から息を殺して見ているヤギたちは、聞き手の子どもでもあると言えるでしょう。当然の報いとしてオオカミは溺れ死に、ヤギたちは喜びのあまり回りで踊りを踊る程でした。弱い命を守ってくれたなんと頼もしいお母さんでしょうか。生命のドラマをお話で体験した子どもたちも、これで満足し安心して眠れるのです。それを物語る最後の絵から、ホフマンの並々ならぬ子どもへの理解と愛情が伝わってきます。
このようにみてきますと昔話を子どもが喜ぶのは、勿論お話の面白さにあるのですが、昔話特有の語り口が子どもをお話に引きつける大切な要素になっていることがわかります。物語への想像力や推察力が子どもの精神活動を活発にさせ、これが心の成長をもたらすのでしょう。日本や世界の昔話には、その国の文化や人間の生き方のあらゆる姿が豊かに語られています。そうした世界を物語をとおして体験することは、生きる力を養います。それはやがて昔話年令を通り過ぎても、新たな読書の喜びへと導き、どんなときも希望をもって誠実に生きることを励まし続けてくれることでしょう。
スイスの画家、フェリクス・ホフマンによる「おおかみと七ひきのこやぎ」は幼い子どもたちに根強い人気のあるすぐれた絵本です。この絵本の誕生には、とても興味深いエピソードがあります。4人の子どもの父親であったホフマンは、病気になった2歳の娘を慰めるために「おおかみと七ひきのこやぎ」のお話を語り、毎日お話に合わせて絵を2枚描いて家に持って帰ってきたそうです。これが後に偉大な絵本作家への第一歩となったのです。父親からのなんと素晴らしい贈り物でしょうか。今回はこの「おおかみと七ひきのこやぎ」をとりあげ、子どもと昔話について考えてみたいと思います。
まずはじめのページでは、広い草場にお母さんヤギだけがエプロンをして二本足で立っています。立つことで子ヤギたちをしっかり見守り、大切に育てていることが伝わってきます。次にお母さんは食べ物をさがしに出かけるため、子ヤギたちにオオカミに気をつけるようにと注意します。そ
れもそのオオカミは声がしわがれていることと足の黒いことで見分けがつくと具体的に教えています。この明解な語り口が聞き手の心をひきつけ、オオカミがくることを予測させます。絵を見ると一番前でお母さんを見上げて真剣に聞いている子ヤギがいます(実はこの一匹だけが助かります。)お話の方は一直線に進み、オオカミがやってきて「あけておくれ、おかあさんだよ」と言います。この時、聞き手の子どもはまるで自分の予想が当たったかのように思い、物語にいっそう引きこまれていきます。昔話ではこの先何が起こるかを警告や禁止、予言などの形で前もって語っておく事がよくあります。これは昔話の特徴として「先取り」、と言われていますが、この先取りにより子ども達は注意をそらさず、お話を最後まで楽しむことができるのでしょう。また、オオカミは、はくぼくを食べたり、足を白くして三度くりかえしやってきます。子どもは繰り返しを喜びますが、このくりかえしも話を辿りやすくさせ、次に起こる出来事への期待をふくらませます。オオカミが雑貨屋に行ったり粉屋に行ったりする場面は、写実とファンタジーを混じり合わせ見事に描かれています。同じような例は、ウクライナ民話「てぶくろ」(ひよこコース収録)にも見られます。動物たちが着ている民族衣装は写実的ですが、キツネやオオカミまで入れるてぶくろはファンタジーの世界です。さて、オオカミがやって来る度に聞き手のハラハラ、ドキドキは高まり、ついに子ヤギたちはオオカミに食べられてしまいます。けれども少しも血が流れたとは語っていません。これも昔話に共通しており、昔話を残酷だと言うのは見当違いで、むしろこの急激な場面展開による精神の高揚こそ、子どもが昔話に求めているものだと思います。七匹目の子ヤギだけ生き残っていたことで、また物語は急展開します。お母さんがオオカミのおなかを切り開いて六匹の子ヤギを助け出し、石をつめて縫い合わせるまでのなんと手早いこと。まるで切り紙細工のようです。目をさましたオオカミを窓の中から息を殺して見ているヤギたちは、聞き手の子どもでもあると言えるでしょう。当然の報いとしてオオカミは溺れ死に、ヤギたちは喜びのあまり回りで踊りを踊る程でした。弱い命を守ってくれたなんと頼もしいお母さんでしょうか。生命のドラマをお話で体験した子どもたちも、これで満足し安心して眠れるのです。それを物語る最後の絵から、ホフマンの並々ならぬ子どもへの理解と愛情が伝わってきます。
このようにみてきますと昔話を子どもが喜ぶのは、勿論お話の面白さにあるのですが、昔話特有の語り口が子どもをお話に引きつける大切な要素になっていることがわかります。物語への想像力や推察力が子どもの精神活動を活発にさせ、これが心の成長をもたらすのでしょう。日本や世界の昔話には、その国の文化や人間の生き方のあらゆる姿が豊かに語られています。そうした世界を物語をとおして体験することは、生きる力を養います。それはやがて昔話年令を通り過ぎても、新たな読書の喜びへと導き、どんなときも希望をもって誠実に生きることを励まし続けてくれることでしょう。
