うれしいニュースと嘆きの現実
10月7日にノーベル物理学賞3名、翌8日にノーベル化学賞1名の日本人受賞が発表されました。
アメリカ発の不況風が吹き荒れるなか、麻生首相は「こんなに明るいニュースは久しぶりです。・・・」と祝福。しかし彼らは、「どんな小さなことでも自分で何かを見つけること」「これだと思うことは失敗してもやり続けること」「興味があることだったら、どんどんやってやり遂げなさい。」と私たちにエールを送りながらも、「目先の見える成果だけではなく基礎を重視する社会になって欲しい」「共通一次については○×、選択形式ではない、考えさせる入試問題にしてほしい」と国に注文し、「近頃は、はじめから難しそうとやらない人がいる。難しくてもやる勇気がない」と若者に苦言を呈していました。
このような世界に誇れるニュースに接するたびに、感動と共感、そして努力の積み重ねに敬意を表するのですが、現実の幼児教育に目を向けると、早期教育のさらなる早期化、行き過ぎた早期教育がはびこっていることがとても気になります。例えば、幼児がテレビに出演して信じられないほどの能力を発揮して「この子は天才だ」と放映する番組があります。この類の番組は、今に始まったものではありませんが、この子たちが大成したという報道は全く耳にしません。それはそうなっていないからです。
ノーベル賞をはじめとする大成した方に子ども時代のことを訪ねると「母のこと」と「遊びほうけていたこと」ばかりです。
つくられる「気になる子」
「新たな幼児教育バッシングが起こるのでは」と前述しましたが、それは子どもがまっとうに育っていないことを意味します。以下のことがあるからです。
世の中を見ると「気になる子」が増えています。「気になる親」も増えています。これは、私も含めた爺婆世代が今の親世代を育てた子育て、教育の結果であり、まさに連鎖です。世の中がおかしくなると、二世代後には取り返しのつかないことが起こる、そんな感じがします。
私は以前より「子育てを通して″気になる子″を作っている」と言っています。「気になる子」を作る行為には、「作為の誤った子育て」、「不作為の誤った子育て」があると思います。「作為の誤った子育て」とは、やらなくてもいいいこと、手を加えなくてもいいことにことさら手を加えること、「不作為の誤った子育て」とは、やるべきことを手抜きすること、あるいは、それを知らない、身につけていない、ということです。
作為の誤った子育て
作為の誤った子育ての代表格は、早期教育の早期化、超早期教育だと思います。
日本での早期教育は、ソニー創業者、故・井深大氏の1971年に発表された『幼稚園では遅すぎる』が始まると言われています。井深氏はその後『幼児開発協会』を設立し、「子どもの大脳細胞は3歳までに出来上がるからそれまでに教え込め」と様々な実験的早期教育を行いました。しかし1980年代後半から早期教育を受けている幼児に問題が起きるケースが多いことがわかり、その弊害が表面化してきました。そして、井深氏はその考えが誤りであったことを公表しました。その中身の一部は「いろいろやってるうちに、本当に必要なのは知的教育よりまず、『人づくり』『心の教育』だと気付いた。学校では落ちこぼれ、暴力、いじめが頻発している。『心を育てる』んは、学校教育だけではなく、母親の役割がなによりも大切であり、子どもの方も幼稚園どころか0歳児、いや胎児期から育てなければならないという考え方に変わってきた。知的教育は言葉がわかるようになってから、ゆっくりでよい、という結果になった」(朝日新聞、1990年4月29日)です。
これについて、今は亡き遠藤豊吉先生は本誌13号(1909年9月発行)で、「私は井深さんが″幼児開発協会″をつくり、知的早期開発論を展開しはじめた時、『困ったことをおはじめになったものだ』と思いながらも、井深さんがいつか、その論を撤回しなければならぬ時がくるだろうという予感を持っておりました。あれから20年が経ちましたが、とうとう私の予感が現実となって現れる時がきたわけです。これまで井深理論に共鳴・実践してきた幼児教育者たちは、この大御所の基本的考えの撤回をどう受けとめ、今後の幼児教育をどう構想されるのか、大に注目したいところです」と記していました。
それから18年が経過した今でも、あやしげな知的早期教育がはびこっています。『週間文春』(2008年9月18日)に早期教育が子どもの脳を破壊する~四文字熟語でひとり言、奇声を発しつづける幼児たち~」という記事が載っていました。その内容は本誌が警告を発し続けてきたことですが、大手マスコミが扱うことに、事の深刻さを感じます。
記事の書き出しに紹介されたある親子のケースは次のようなものでした。
生まれた直後から最近まで、幼児教育で早期教育を受けていたという3歳になったばかりの男の子が「一喜一憂、吉田松陰、高杉晋作・・・・・・」と壁に向かって一心不乱に念仏のようにつぶやきだした。母親によると、教室では絵や感じに書かれているフラッシュカードを0.5秒に1枚の速さで次々と見せていく。大量のカードを次々と見せることで、子どもの右脳が活性化するという説明でした。でも、3歳になる頃から壁に向かってひとり言をいうようになり、その中身はフラッシュカードのものばかり。目の焦点が合わない。生気もない。笑わなくなった。
このような現象は、テレビに話しかけても応答してくれない、テレビ子育てと同じ弊害です。フラッシュカードを次々と見せても、所詮、一方通行。そんな幼児教室がたくさんあります。「子どもに見せる一方通行の映像・フラッシュカード=要注意」と思った方がいいと思います。
核家族化が進み、地域社会との疎遠、子育てに悩む親が年齢・学歴に関係なく増えています。そうした育児不安が早期教育業者に狙えわえrているのです。
新しい要領・指針には保護者への支援が謳われていますが、このような早期教育の問題点については、園として保護者にきちっと伝えて欲しいと思います。
早期教育が危惧される理由は、次のことです。
・基本的信頼感や自律心などの心の発達が損なわれる危険性がある。
・目先の成果のみが強調され、子どもの思春期を見通す長期的な検討がされていない
・幼児期までの知的記憶は、親の期待と裏腹に忘れてしまうことが多い
不作為の誤った子育て
昔から、
手をかけて
手がはなれたら目をかけて
目がはなれたら心はなすな
という、誕生から思春期ごろをまでを見通した子育ての言い伝えがあります。
「手をかけて」とは、子どもが誕生してからしばらくの間は、泣けばミルクをあげたり、オムツ交換をしたり、あやしたり、子どもが目覚めている間は大人が積極的に関わってあげなければならない、ということです。
「手がはなれたら目をかけて」とは、乳児から幼児になり段々手はかからなくなると、子どもはあちらに行ったり、こちらに行ったり、大人が目をはなすとケガをしたり、とんでもないことが起こりますよ、ということです。
「目がはなれたら心はなすな」とは、少年少女期から思春期を迎えると、子どもの活動範囲が広がり、そういう時期こそ心をはさなないように、ということです。
私はこの言い伝えがとても好きです。
しかし、今の子育て状況を見ると、最初の「手をかけて」という部分が欠けていると思います。そして、現代の子育ての姿を見ると「手をかけて」がちゃんとできている親は、「手がはなれたら目をかけて」も「目がはなれたら心はなすな」もできています。でも、そうではないと思われる親も多々見受けられます。
そういう親の特徴は①あやし方を知らない、②知っていても手間のかかることが面倒、③核家族、少子化のなかで少年少女期に赤ちゃんとの接触経験がない、などの理由が考えられます。
それは私たちが求めてきた豊かさの影の部分であり、私を含めた爺婆世代が次の世代へ知恵やスキルを伝えなかったその結果ではないかと思います。
そして、その社会的背景としては、
(1)直線的思考の論理
(2)子育ての分断、親子関係の文壇
(3)プロセスの消去
(4)伝承の分断
があると思います。
―中略ー
このような社会環境の中で、今の親世代が育ってきました。
現代の親の特徴について、ノーベル賞受賞の益川氏は「今の親は教育熱心ではない。教育結果熱心である。」という言い方で批判していましたが、私は、今の親は「子育て・教育を手配する人」になっていると思っています。知らないことがあったり、困ったことがあると、自らそれを克服するのではなく、手配師になる傾向があります。そういう親にはなぜそれがいけないことのなのかを伝えなければなりません。子どもとのふれあい方、あやし方などを伝える必要があります。これも大切な保護者支援であると思います。
注目したい中教審答申
最後に、今回の改訂(改定)にあたり、私がとても重要だと思っていること、そして幼児教育現場の先生方や幼い子どもを持つ保護者に伝えなければならないことがあります。それは、新しい指針や要領が発表される直前の2008年1月17日に公表された中央教育審議会の答申です。
指針の説明会などでは、「ここがこう変わった。これからはこうして下さい。」などの現場への要望・要求は多いようですが、この件についてはあまり語られていないようです。
これをマスコミは「ゆとり教育からの脱却」などと大きく報道しましたが、保育現場ではこの答申の中身については意外と知られていない気がします。
それは「言葉の力」の育成です。
「確かな学力」を基盤とした「生きる力」の育成を目指し、この「確かな学力」を支えるものこそが、「言葉の力」であり、全ての教育活動において「言葉の力」の育成を念頭に置かねばならない、と梶田叡一(中教審教育課程部会長・兵庫教育大学学長)は述べています。
「言葉の力」には家庭の役割が大きい
その詳細については拙著『言葉の力が子どもを育てる』をご覧いただきたいのですが、梶田氏は「言葉の力」を育てるためには、「家庭の役割が大きい」、幼児期に母親などから自然な状態で習得する「母語の力」の重要性を以下のように述べています。
「言葉(母語)の力」こそが、各人の認識を、思考を、判断を支えるものであり、そうした基盤の上にたって初めて言葉が相互の伝え合いの力ともなるのである。「確かな学力」が「言葉の力」を基盤とするというのは、まさにこの意味からであると言ってよい。
リンネが人間に付けた学名は「ホモ・サピエンス(知性人)」であった。人間をまさに人間たらしめているサピエンス(知性)の土台を担うものこそ「言葉(母語)の力であると言っていいのである。「言葉の力」の持つこうした根源的意義についての理解を深めつつ、新しい学習指導要領に向けて提起されているところを受けとめていきたいものである。
本誌創刊以来、一貫して「読み聞かせ」の大切さを訴えてきましたが、梶田氏がいうこのことは、本誌が主張してきたことと合致します。
母語とは、幼いときに母親などから自然な状態で習得する言語です。しかし、自然な状態で幼子に語れる親は少なくなりました。園でも実践して欲しい、家庭にもそれをすすめて欲しい。その積み重ねが子どもの基本的信頼感の獲得につながり、「言葉の力」が身につき、その積み重ねの結果が「学力」「コミュニケーション力」などにつながっていくのです。
子育て・教育の原点は肉声にあるということが、広くいきわたることを願ってやみません。
10月7日にノーベル物理学賞3名、翌8日にノーベル化学賞1名の日本人受賞が発表されました。
アメリカ発の不況風が吹き荒れるなか、麻生首相は「こんなに明るいニュースは久しぶりです。・・・」と祝福。しかし彼らは、「どんな小さなことでも自分で何かを見つけること」「これだと思うことは失敗してもやり続けること」「興味があることだったら、どんどんやってやり遂げなさい。」と私たちにエールを送りながらも、「目先の見える成果だけではなく基礎を重視する社会になって欲しい」「共通一次については○×、選択形式ではない、考えさせる入試問題にしてほしい」と国に注文し、「近頃は、はじめから難しそうとやらない人がいる。難しくてもやる勇気がない」と若者に苦言を呈していました。
このような世界に誇れるニュースに接するたびに、感動と共感、そして努力の積み重ねに敬意を表するのですが、現実の幼児教育に目を向けると、早期教育のさらなる早期化、行き過ぎた早期教育がはびこっていることがとても気になります。例えば、幼児がテレビに出演して信じられないほどの能力を発揮して「この子は天才だ」と放映する番組があります。この類の番組は、今に始まったものではありませんが、この子たちが大成したという報道は全く耳にしません。それはそうなっていないからです。
ノーベル賞をはじめとする大成した方に子ども時代のことを訪ねると「母のこと」と「遊びほうけていたこと」ばかりです。
つくられる「気になる子」
「新たな幼児教育バッシングが起こるのでは」と前述しましたが、それは子どもがまっとうに育っていないことを意味します。以下のことがあるからです。
世の中を見ると「気になる子」が増えています。「気になる親」も増えています。これは、私も含めた爺婆世代が今の親世代を育てた子育て、教育の結果であり、まさに連鎖です。世の中がおかしくなると、二世代後には取り返しのつかないことが起こる、そんな感じがします。
私は以前より「子育てを通して″気になる子″を作っている」と言っています。「気になる子」を作る行為には、「作為の誤った子育て」、「不作為の誤った子育て」があると思います。「作為の誤った子育て」とは、やらなくてもいいいこと、手を加えなくてもいいことにことさら手を加えること、「不作為の誤った子育て」とは、やるべきことを手抜きすること、あるいは、それを知らない、身につけていない、ということです。
作為の誤った子育て
作為の誤った子育ての代表格は、早期教育の早期化、超早期教育だと思います。
日本での早期教育は、ソニー創業者、故・井深大氏の1971年に発表された『幼稚園では遅すぎる』が始まると言われています。井深氏はその後『幼児開発協会』を設立し、「子どもの大脳細胞は3歳までに出来上がるからそれまでに教え込め」と様々な実験的早期教育を行いました。しかし1980年代後半から早期教育を受けている幼児に問題が起きるケースが多いことがわかり、その弊害が表面化してきました。そして、井深氏はその考えが誤りであったことを公表しました。その中身の一部は「いろいろやってるうちに、本当に必要なのは知的教育よりまず、『人づくり』『心の教育』だと気付いた。学校では落ちこぼれ、暴力、いじめが頻発している。『心を育てる』んは、学校教育だけではなく、母親の役割がなによりも大切であり、子どもの方も幼稚園どころか0歳児、いや胎児期から育てなければならないという考え方に変わってきた。知的教育は言葉がわかるようになってから、ゆっくりでよい、という結果になった」(朝日新聞、1990年4月29日)です。
これについて、今は亡き遠藤豊吉先生は本誌13号(1909年9月発行)で、「私は井深さんが″幼児開発協会″をつくり、知的早期開発論を展開しはじめた時、『困ったことをおはじめになったものだ』と思いながらも、井深さんがいつか、その論を撤回しなければならぬ時がくるだろうという予感を持っておりました。あれから20年が経ちましたが、とうとう私の予感が現実となって現れる時がきたわけです。これまで井深理論に共鳴・実践してきた幼児教育者たちは、この大御所の基本的考えの撤回をどう受けとめ、今後の幼児教育をどう構想されるのか、大に注目したいところです」と記していました。
それから18年が経過した今でも、あやしげな知的早期教育がはびこっています。『週間文春』(2008年9月18日)に早期教育が子どもの脳を破壊する~四文字熟語でひとり言、奇声を発しつづける幼児たち~」という記事が載っていました。その内容は本誌が警告を発し続けてきたことですが、大手マスコミが扱うことに、事の深刻さを感じます。
記事の書き出しに紹介されたある親子のケースは次のようなものでした。
生まれた直後から最近まで、幼児教育で早期教育を受けていたという3歳になったばかりの男の子が「一喜一憂、吉田松陰、高杉晋作・・・・・・」と壁に向かって一心不乱に念仏のようにつぶやきだした。母親によると、教室では絵や感じに書かれているフラッシュカードを0.5秒に1枚の速さで次々と見せていく。大量のカードを次々と見せることで、子どもの右脳が活性化するという説明でした。でも、3歳になる頃から壁に向かってひとり言をいうようになり、その中身はフラッシュカードのものばかり。目の焦点が合わない。生気もない。笑わなくなった。
このような現象は、テレビに話しかけても応答してくれない、テレビ子育てと同じ弊害です。フラッシュカードを次々と見せても、所詮、一方通行。そんな幼児教室がたくさんあります。「子どもに見せる一方通行の映像・フラッシュカード=要注意」と思った方がいいと思います。
核家族化が進み、地域社会との疎遠、子育てに悩む親が年齢・学歴に関係なく増えています。そうした育児不安が早期教育業者に狙えわえrているのです。
新しい要領・指針には保護者への支援が謳われていますが、このような早期教育の問題点については、園として保護者にきちっと伝えて欲しいと思います。
早期教育が危惧される理由は、次のことです。
・基本的信頼感や自律心などの心の発達が損なわれる危険性がある。
・目先の成果のみが強調され、子どもの思春期を見通す長期的な検討がされていない
・幼児期までの知的記憶は、親の期待と裏腹に忘れてしまうことが多い
不作為の誤った子育て
昔から、
手をかけて
手がはなれたら目をかけて
目がはなれたら心はなすな
という、誕生から思春期ごろをまでを見通した子育ての言い伝えがあります。
「手をかけて」とは、子どもが誕生してからしばらくの間は、泣けばミルクをあげたり、オムツ交換をしたり、あやしたり、子どもが目覚めている間は大人が積極的に関わってあげなければならない、ということです。
「手がはなれたら目をかけて」とは、乳児から幼児になり段々手はかからなくなると、子どもはあちらに行ったり、こちらに行ったり、大人が目をはなすとケガをしたり、とんでもないことが起こりますよ、ということです。
「目がはなれたら心はなすな」とは、少年少女期から思春期を迎えると、子どもの活動範囲が広がり、そういう時期こそ心をはさなないように、ということです。
私はこの言い伝えがとても好きです。
しかし、今の子育て状況を見ると、最初の「手をかけて」という部分が欠けていると思います。そして、現代の子育ての姿を見ると「手をかけて」がちゃんとできている親は、「手がはなれたら目をかけて」も「目がはなれたら心はなすな」もできています。でも、そうではないと思われる親も多々見受けられます。
そういう親の特徴は①あやし方を知らない、②知っていても手間のかかることが面倒、③核家族、少子化のなかで少年少女期に赤ちゃんとの接触経験がない、などの理由が考えられます。
それは私たちが求めてきた豊かさの影の部分であり、私を含めた爺婆世代が次の世代へ知恵やスキルを伝えなかったその結果ではないかと思います。
そして、その社会的背景としては、
(1)直線的思考の論理
(2)子育ての分断、親子関係の文壇
(3)プロセスの消去
(4)伝承の分断
があると思います。
―中略ー
このような社会環境の中で、今の親世代が育ってきました。
現代の親の特徴について、ノーベル賞受賞の益川氏は「今の親は教育熱心ではない。教育結果熱心である。」という言い方で批判していましたが、私は、今の親は「子育て・教育を手配する人」になっていると思っています。知らないことがあったり、困ったことがあると、自らそれを克服するのではなく、手配師になる傾向があります。そういう親にはなぜそれがいけないことのなのかを伝えなければなりません。子どもとのふれあい方、あやし方などを伝える必要があります。これも大切な保護者支援であると思います。
注目したい中教審答申
最後に、今回の改訂(改定)にあたり、私がとても重要だと思っていること、そして幼児教育現場の先生方や幼い子どもを持つ保護者に伝えなければならないことがあります。それは、新しい指針や要領が発表される直前の2008年1月17日に公表された中央教育審議会の答申です。
指針の説明会などでは、「ここがこう変わった。これからはこうして下さい。」などの現場への要望・要求は多いようですが、この件についてはあまり語られていないようです。
これをマスコミは「ゆとり教育からの脱却」などと大きく報道しましたが、保育現場ではこの答申の中身については意外と知られていない気がします。
それは「言葉の力」の育成です。
「確かな学力」を基盤とした「生きる力」の育成を目指し、この「確かな学力」を支えるものこそが、「言葉の力」であり、全ての教育活動において「言葉の力」の育成を念頭に置かねばならない、と梶田叡一(中教審教育課程部会長・兵庫教育大学学長)は述べています。
「言葉の力」には家庭の役割が大きい
その詳細については拙著『言葉の力が子どもを育てる』をご覧いただきたいのですが、梶田氏は「言葉の力」を育てるためには、「家庭の役割が大きい」、幼児期に母親などから自然な状態で習得する「母語の力」の重要性を以下のように述べています。
「言葉(母語)の力」こそが、各人の認識を、思考を、判断を支えるものであり、そうした基盤の上にたって初めて言葉が相互の伝え合いの力ともなるのである。「確かな学力」が「言葉の力」を基盤とするというのは、まさにこの意味からであると言ってよい。
リンネが人間に付けた学名は「ホモ・サピエンス(知性人)」であった。人間をまさに人間たらしめているサピエンス(知性)の土台を担うものこそ「言葉(母語)の力であると言っていいのである。「言葉の力」の持つこうした根源的意義についての理解を深めつつ、新しい学習指導要領に向けて提起されているところを受けとめていきたいものである。
本誌創刊以来、一貫して「読み聞かせ」の大切さを訴えてきましたが、梶田氏がいうこのことは、本誌が主張してきたことと合致します。
母語とは、幼いときに母親などから自然な状態で習得する言語です。しかし、自然な状態で幼子に語れる親は少なくなりました。園でも実践して欲しい、家庭にもそれをすすめて欲しい。その積み重ねが子どもの基本的信頼感の獲得につながり、「言葉の力」が身につき、その積み重ねの結果が「学力」「コミュニケーション力」などにつながっていくのです。
子育て・教育の原点は肉声にあるということが、広くいきわたることを願ってやみません。
げんき編集長 新開英二